まんだら絵解きの最後に、この当麻まんだらができた由来と、その流布についてのお話をいたしましょう。
まずは、当麻まんだらの出現にかかわった中将姫さまのお話です。中将姫さまがいらっしゃったからこそ、私たちはこのまんだらを拝むことができるのです。そのご生涯と、まんだら出現の様子をお話しします。
まんだらの下の縁、散善義の中央に、四百十三文字が並んだ枠があります。これを縁起段といって、ここに、まんだらの由来として、中将姫さまのことが書かれています。
次に、奈良・平安と、数百年ものあいだ忘れ去られていたこの当麻まんだらを再発見し、世の中に広められた西山證空上人のお話しをいたします。
西山上人は、浄土宗を開かれた法然上人の愛弟子で、二十三年もの間、親しく教えを受けられた方です。その西山上人が、初めて当麻まんだらを拝まれた時の感激と、その後の布教のことをお伝えします。
当麻寺は、聖徳太子の弟、麻呂子親王が奈良の当麻に建てられた禅林寺(旧称、万法蔵院)の通称で、修験道の役行者も修行されたお寺でした。
大炊天皇の時代、中将姫さまという女性がいらっしゃいました。中将姫さまは、横佩の大臣、藤原豊成公の娘で、みずから『称讃浄土経』一千巻を書写して奉納するなど、たいへん信仰深い方でした。
やがて天平宝字七年(七六三)六月十五日、髪を落として尼となり、当麻寺に参籠されました。「目の前に生きた仏さまのお姿を拝見するまで、私はこのお寺から出ません」と誓われ、一心に祈られました。
すると同二十日、一人の比丘尼(尼僧)が現れました。「私がその願いをかなえましょう。すぐに馬百頭分の蓮の茎を集めなさい」。これを聞いた中将姫さまは、さっそく天皇にお願いし、近江の国から蓮の茎を取り寄せました。
比丘尼は、これを受け取ると、見事な手さばきで茎を折って、たくさんの糸を取り出しました。そして近くに井戸を掘って糸を浸すと、みるみるうちに糸は五色に染まりました。そのすばらしい光景に、中将姫さまは涙をこぼさずにはいられませんでした。
同二十三日の夕方、天人のような雅びやかな女性が現れました。比丘尼に「蓮糸の準備はできていますか?」と尋ね、色鮮やかな蓮糸を受け取ると、お堂の北西の隅に機を置き、藁に灯りをともして、午後十時から午前二時にかけて、約四メートル四方の綴織り観経浄土まんだらを織り上げました。
完成したまんだらを、節のない竹を軸として掛けてみると、織り上げられた浄土の様子は、まさしく「光明遍照」、まぶしいほどの輝きです。
すると、機織りの女性はどこへともなく消え、比丘尼は、おもむろにこのまんだらの深い意味合いを絵解きされ始めました。
「南(向かって右)の縁は『観経』の序分、北の緑(向かって左)は精神集中の修行方法、下の縁には九つの来迎、中央は阿弥陀如来の四十八願を実現した浄土を織りつくしたもの…」。
中将姫さまは、袖をしぼるほどの涙を流しながら、今、浄土にいるような心地でした。
「まさに今、生きた仏さまのお姿を拝み、極楽浄土を見せていただきました」
すると比丘尼は、「わたしは西方極楽の教主である。織女は、わたしの左脇の弟子である」と言うと、西の方へと去ってゆかれました。なんと、比丘尼は阿弥陀さまご自身、織女は観音さまの化身だったのです。中将姫さまは感激さめやらず、涙が乾くまで延々と見送り続けました。
やがて宝亀六年(七七五)三月十四日、中将姫さまは穏やかな往生を迎えられました。紫の雲が空にたなびき、良い香りがして、美しい音楽がいつまでも聞こえていたそうです。
これが、当麻まんだらがこの世に出現した由来です。そのきっかけを作られた中将姫さまは、私たちにとって極楽浄土への先達といえます。その跡を慕って、当麻寺では毎年五月十四日、姫さまの往生を再現する二十五菩薩練供養会式が行われています。
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