西山流祖證空上人は、建暦二年(一二一二)に師匠の法然上人がお亡くなりになった後、そのご遺志を継いで、お念仏の教えを学び続け、また弟子たちにも講義する日々を送っておられました。
西山上人は、法然上人の晩年の教えを踏まえ、善導大師の書物を熟読して独創的な解釈を発表されましたが、当時は、それを批判する人が多かったといいます。
「もし法然上人がいらっしゃったら、きっと私を認めてくださるのに…」。
西山上人は、孤独に努力を続ける毎日でした。
ある時、弟子の一人、薩生房が、西山上人の講義を聞いて言いました。
「今のお話そのままに描かれたまんだらを、奈良の当麻寺で拝見しました」。
驚いた西山上人は、最も信頼する弟子、宇都宮実信房を連れて当麻寺に向かいました。当麻寺は、当時ほとんど忘れ去られたお寺でした。まんだらの存在を知る人もわずかだったようです。
当麻に到着した西山上人一行が、薄暗いまんだら堂の中に入ると、そこには輝かんばかりの極楽浄土がありました。
「これは…『観無量寿経』のまんだらだ!しかも、善導大師のお教えそのままではないか!」
定善義の日想観から『観経』の本題が始まり、その太陽に三つの雲がかかっていることなど、善導大師の教えの特徴が、まさに目の前に広がっていたのです。西山上人は時の過ぎるのを忘れて見入っていました。
気が付くと、欣浄縁のお釈迦さまの前に、阿弥陀三尊が描かれています。それは、西山上人が発表した「光台密益説」という新説そのものの図でした。
「おお、なんと不思議なこと!」
同行した実信房も驚き、思わず声を上げました。西山上人の新説の正しさが、天平時代のまんだらによって証明されたのです。
「これこそ阿弥陀さまのお導き。ぜひこのまんだらを世の中に広めなくては」。
西山上人は、強い決意をもって、このまんだらの流布に力を注がれました。実信房は関東の有力武者でしたので、経済面でも西山上人を支えました。
当麻寺では、所属の僧侶にしかまんだらを写すこと認めないとのことでした。、西山上人は供養料を納め、当麻寺の僧として四メートル四方の原寸大のまんだらを写されました。近畿から信濃善光寺までに十三のお寺を作り、このまんだらを納められたといいます。
また実信房も「原寸大では持ち運びに不便」と四分の一の図を考案、流布の一翼を担いました。ついには木版画のまんだらを作り、中国にまで届けたという伝承もあります。こうして西山上人が広められたまんだらは、いまや宗派を超えて日本中の寺院に所蔵されています。
そして、まんだらを解説する「絵解き」は、文字の読めない人たちにもお念仏の教えをわかりやすく伝えました。まんだら一つを抱えて布教に出て、現地でお寺を建てたお坊さんもいらっしゃいます。
絵画等の美術品はもちろん、話芸と呼ばれる伝統芸能にも、このまんだらとその絵解きの延長線上にあるものは少なくありません。日本文化において西山上人の占める位置は、まことに重要です。
西山上人は、常にこう語られました。
「このまんだらは、私たちの往生を映し出す鏡と拝みなさい」。
この身このまま、極楽浄土にいる心地の日暮し。まんだらを拝みつつ、最後に西山上人の安心とお念仏の教えをお伝えして、長い長いこのものがたりを締めくくりたいと思います。
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